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建築のドラマトゥルギー

 建築は、純粋幾何学への還元あるいは歴史的言語の引用、参照といった形態の自律的展開に頼ることしか方法がないことを断言することによって、硬直したモダニズムに終止符を打とうと戦ってきたが、未だにモダニズムから抜け出せないでいるのが現状である。近代建築がいかに独断的イデオロギーの固まりであったかがよく理解できる。

 一方、メディアと仮想現実において、建築は「全体」でなくてはならないし「現実」でなくてはならないし、「具体的場」でなくてはならないはずであるが、現在の建築論の中には、メディアが建築を完全に蒸発させ、消し去るだろうという期待感、ないしはそうなってほいうという希望さえも存在している。おそらく、そのようなメディアの社会性や歴史性を読み解いていくことが、そのまま建築の社会的、歴史的な構成を読み解いていくことにもなるのである。

 私が建築するという行為において、常に三つの局面から建築をとらえるようにしている。敷地、筋書、表現である。

 敷地は、具体的なニーズを安定化ないし、明確化して地域に根付かせる場であり、物理的広さとは関係ないその場の記憶と内在する軌跡とを同時に包み込んでいる。したがって、敷地には何かを起こす可能性があり、動的なものとなりえる。

 筋書はドラマのようなもので、ストーリーがあり、ドラマトゥルギーが要求される。建築はそれ自体、そこに住む人々を身体レベルで組織していく装置でもある。演劇において観客のまなざしがその演劇固有のドラマトゥルギーによって編成されていくのと同様、建築に住む人のまなざしも建築固有のドラマトゥルギーに基づいて構成されている。建築におけるさまざまな出来事は、このドラマトゥルギーによってひとつのドラマへとまとめ上げられ、「意味」を与えられる。演技者は、ちょうど言語を習得する子供と同じように、知らず知らずのうちにその建築が要求するドラマを上手に演じられるようになる。おそらく現実にはさまざまなドラマトゥルギーが並存し、影響しあい、ある特定の社会的形式を獲得していくのである。

 建築は、筋書きによっては何にでもなりうるのであり、最終的には、筋書通りの終結が到来する。そして、社会的形式を具体的に解釈し表現するものとして、建築を考えている。